アメデオ・モディリアーニの1918年作《杖を持つ座った男(Seated Man With a Cane)》——推定価値2500万ドル(約40億円)を超える名画の所有権を、フランス人の個人農家へ戻す判断がされました。
衝撃の判決——ビリオネアの倉庫から農家の手へ
2026年4月3日、ニューヨーク最高裁判所のジョエル・M・コーエン判事が下した判決は、国際美術界に衝撃を与えました。
《杖を持つ座った男》——推定価値2500万ドル(約40億円)を超えるモディリアーニの名画の所有権を、国際的なビリオネア美術商デイヴィッド・ナーマド一族の関連企業から、ユダヤ系美術商の孫にあたるフランス在住の農家・フィリップ・マエストラッチ氏に認めたのです。
判事は「オスカー・ステッティナーは、絵が不法に奪われる前に所有権を有しており(あるいは少なくとも優越的な占有権を持っていた)、自らそれを放棄したことはない」と明確に述べ、遺族側への返還を命じました。ナーマド側が長年にわたり「同じ絵ではない」と主張してきた点も、きっぱりと退けられました。
勝訴したのは「フランスの普通の農家」
この判決が世界的な注目を集めた理由のひとつは、請求者の素顔にあります。
勝訴したフィリップ・マエストラッチ氏は、現在80歳前後。フランス南西部ドルドーニュ県の小さな町ラ・フォルスで、妻とともに静かに農業を営む普通の農家(agriculteur)です。派手な美術界とは無縁の、地に足のついた生活を送ってきた彼が、祖父の失われた一枚の絵を求めて世界を股にかける大物美術商と11年間闘い続けた——そのコントラストが、国際メディアを大きく賑わせています。
戦火に消えた祖父の遺産
この物語は、第二次世界大戦中に遡ります。
パリの美術商と、ナチスによる略奪
1930年代、パリで骨董商・美術商として活躍していたオスカー・ステッティナーは、英国生まれのユダヤ系でした。モディリアーニ本人とも交流があったとされ、自らの画廊でその作品を扱っていました。
ナチスがフランスに侵攻した1939年、ステッティナーは命からがらパリを脱出。残された店やコレクションはナチスに没収され、1944年には強制競売にかけられました。《杖を持つ座った男》も、そうして市場に流れた一枚です。
帽子をかぶりダークスーツ姿で杖を手にゆったりと座る中年男性を描いたこの油彩画は、モディリアーニらしい長い首、傾いた頭、物憂げな表情と簡素な背景が特徴で、1918年の南仏滞在期における円熟したスタイルを体現しています。モデルは富裕なチョコレート商人ではないかとも言われていますが、詳細は不明のままです。
戦後の返還請求と、叶わなかった夢
戦後、ステッティナーは1946年のフランス裁判で返還を勝ち取りました。しかし絵はすでに市場に流れており、実際には戻ってきませんでした。彼は1948年に没し、その後長い間、この絵は家族の記憶の中にしか残りませんでした。
11年間の闘い——農家が国際裁判に挑む
時は流れ、2011年頃。孫のフィリップ・マエストラッチ氏が動き出しました。
孫が動き出した日
ナチス略奪美術品の回収を専門とするカナダ企業モンデックスと協力し、祖父の絵を追い始めたのです。
2015年にはニューヨークで本格提訴。ナーマド一族の関連企業インターナショナル・アート・センター(IAC)が1996年のオークションで入手した絵こそが、祖父のものであると主張しました。
パナマ文書が明かした「隠された真実」
ナーマド側は当初「同じ絵ではない」「来歴に問題なし」と強く反論していました。ところが2016年、パナマ文書の流出により、オフショア企業を通じた所有実態が明るみに出ます。さらにスイス・ジュネーブのフリーポート(免税倉庫)での保管疑惑も浮上し、裁判の様相は一変しました。
控えめな性格でメディア露出を好まないマエストラッチ氏本人に代わり、モンデックスのジェームズ・パーマー氏が判決後にこう語っています。「クライアントは喜びと満足でいっぱいだ。祖父の旅がようやく完結した」。
判決が示したもの——「力ある者」より「正しい者」へ
今回の判決の核心は、ナチスによる強制没収という事実を認め、所有権は一度も正当に移転していなかったと認定した点にあります。
所有権は「移転していない」
戦後80年以上が経過してもなお、こうした返還(restitution)が続く現実を、この裁判は改めて象徴しています。
美術界に残り続ける問い
この事件は、ナチス略奪美術品返還の難しさと、戦争が一つの家族にもたらした運命の激変を浮き彫りにしています。祖父はパリの華やかな美術商であったのに、孫はフランスの田舎で農地を耕す——その落差が、この物語に強烈な印象を与えています。
もちろん、ナーマド側が控訴する可能性は残ります。美術界では「所有権の安定」と「道義的正義」の間で、こうした争いが今も続いています。しかし今回、裁判所は「力ある者」ではなく「正しい者」に軍配を上げました。
フランスの小さな農村で日々畑仕事に励む一人の老人が、祖父の無念を晴らそうと国際裁判に挑んだ末、ビリオネアの倉庫に眠っていた名画が動き出そうとしている——この意外な物語は、戦争の傷がまだ癒えていないことを、静かに思い出させてくれます。美術は美しさだけでなく、歴史の証人でもあるのです。
まとめ
マエストラッチ氏が絵を返還された後、どうするかはまだ公表されていません。売却して農場の資金にするのか、美術館に寄贈するのか、家族で保管するのか——いずれにせよ、数千万ドルの価値を持つ名画が突然、静かな農家の人生に訪れるという現実離れした展開です。
返還が完了すれば、80年以上ぶりにフランスに戻る「歴史的な瞬間」となります。「祖父の旅がようやく完結した」——その言葉の重みを、私たちもともに受け止めたいものです。
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