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ミッシェル・ポルナレフのデビューからフレンチポップス界のセンセーションへ

ミッシェル・ポルナレフ、懐かしいですね。

スター歌手のポルナレフは、今でも世界中にファンがいますが、特に日本ではミッシェル・ポルナレフの根強いファンが多いようです。

私もそんなファンの一人で、学生のころポルナレフの歌を聴いていました。

過激な格好のアルバムジャケット、華麗なピアノ演奏、高音の響き、サングラスと金髪のチリチリパーマのヘアスタイルで謎がかった歌手のイメージです。

ポルナレフの人気が白熱した理由には、デビュー当時の社会背景がありますね。

まさに、フランスで起こった社会運動とポルナレフのヒット曲は同時進行でした。

ミッシェル・ポルナレフとフレンチポップス界の革命

 

ミッシェル・ポルナレフのデビュー

ミッシェル・ポルナレフのデビュー曲は、「ノンノン人形(La Poupée qui fait non)」でした。

曲は、ミ、ラ、レの旋律で、20万枚の売り上げとなったヒット曲です。

ノンノン人形とはなんにでも「ノー」という人形の意味で、レコード発売当時にはそんな風潮がありました。

Il est interdit d'interdire !」という、「禁止するを禁止する」という標語が流行っていた時代です。

学生運動が全盛期を迎える2年前で、官僚主義への反対、ベトナム戦争反対、性の開放が叫ばれる時代背景だったのです。

ポルナレフは、そんな「メ・スワサントユイット、68年の5月」の時代を生きたフレンチポップス歌手です。

「イエス」とは言わない人形の歌詞は、社会の風潮にマッチングしたのですね。

この歌以外で、性の開放的歌詞の歌が夜22時以降の放送ともなっていました。

新曲以来も、ポルナレフは3曲目邦題「愛の願い Love Me, Please Love Me 」を出し、ヒットします。

出だし好調なポルナレフは、異例の速さでオランピア劇場 (L’Olympia)の舞台に立ちました。

ミッシェル・ポルナレフの将来はクラシックピアニスト

ミッシェル・ポルナレフはコンサートでもピアノを弾いています。

というのも、ミッシェル・ポルナレフのお父さんが作曲家で、ポルナレフは厳しいピアノの練習を長時間行い、10時間もの練習をする日もあったようです。

間違えると、ぴしゃりと指が叩かれていた、とポルナレフさんは回想しています。

お父さんは有名作曲家で、エディト・ピアフやイヴ・モンタンに作曲していました。

ポルナレフはそんな父のもと、パリ国立地方音楽院に入るも、クラシック音楽ばかり、毎日のピアノの練習にうんざりして、20歳で家をでることになりました。

家を出たポルナレフはお金稼ぎに、サクレクール寺院のあるモンマルトルの丘、カフェのテラスで歌い、お金を貰っていたのです。

そんなポルナレフを、ムーランルージュの音楽ディレクターのアンドレ・プスに見出いだされ、その後歌手となる道を歩むことになったのです。

学生運動はさらに進み、68年の5月後、ドゴール大統領が国民投票を行い不信任となり、大統領を辞任しました。 ポンピドー大統領が選出され、学生運動は下火になっていきます。

ミッシェル・ポルナレフのセンセーション

センセーションといえば、ポルナレフのヒップまる出しの、広告宣伝がありましたね。

1972年に再びオランピア劇場でコンサートをするのも、宣伝広告のポスターが過激でした。

「ポランレボリューション Polanrévolution」と題した広告は、パコランバンの白いブラウス、下半身のヒップが目立つもので、

それが、パリ中の広告塔にも約6000か所に貼られたのです。

肌の露出度が多い広告には全く不慣れな時代で、賛否両論のなか、センセーションを巻き起こしたのです。

センセーションではあったのですが、公序違反で、一枚10フラン、x6000=6万フランの罰金が課せられ、裁判所へ出頭することになります。

学生運動は下火にはなったものの、世の中の価値観はまだ、古風であったり、アルバムジャケットにも、更なる奇抜な広告作戦でポルナレフは旋風をまき散らし続けたのですね。

ミッシェル・ポルナレの国外逃亡からブルーの時代

その後、アメリカ、日本とコンサートを行い、爆発的にインターナショナルな歌手となるのですが、フランス国税から税金未納問題で、その後、アメリカへ逃亡となっています。

ミッシェル・ポルナレフのアメリカ逃亡からフランスへ

スーパースターとなったポルナレフは、金銭面で信頼関係があった男性に一切の経理面を委託していました。

付き人的な、ベルナール・セノー(Bernard Seneau)をポルナレフは信じ、お金の使い込みをされているとは露程も知らなったのです。

国税当局から支払い督促が来て、税金を払うにもお金がなく、母を失ったこともあり、納税を逃れ、アメリカへ逃亡することになりました。

国外逃亡を計り、アメリカへ行ったポルナレフは、一文無しで、友人にお金を借りて、キャラバン暮らしからやり直したのですね。

フランス国税問題でフランスの地を踏むことができなポルナレフは、「フランスへの手紙」と題し、フランスへも思いを歌にしています。

ポルナレフがアメリカへ行った理由には、フランスポップスという環境では、もう学ぶものがないというのもあったようでが、5年経過して、戻りたいという気持ちが強くなったようです。

歌詞の中で、「時たま、君(フランスのこと)を思い苦しい」と歌っていました。

ミッシェル・ポルナレフのひきこもりブルー時代

フランスへのの手紙を出したころから、ポルナレフはフランスへ戻り、国税当局からの取り立てをかわしながら、国外でのコンサート活動を継続していきます。

1985年からホテル暮らしをし、曲の創作活動を始めるも、ポルナレフにとっては、ヒット曲がでないで、1987年からパリのパレスホテル、ロワイヤル・モンソーへ住居を変えます。

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ホテル、ロワイヤル・モンソー

ロワイヤルモンソーでは創作にはげむのですが、白内障で両目がほぼ見えない状態で、ホテルにこもっていた時期を経験しています。

このロワイヤルモンソーは、パリでも屈指の5つ★ホテルで、パラスに指定されています。

ポルナレフが宿泊していた部屋はスイートルームだったようで、一般人には1泊20万円ほどです。

ポルナレフの人物像がつかみにくいのは、国税から逃れ国外脱出をし、5つ星ホテルのスイートルームに2年半も宿泊するというのは、ミステリアスですよね。

しかし、ホテルの環境は良かったのか、発表されたシングルはヒットしたのですね。

ミッシェル・ポルナレの視力回復~現在

ホテルには合計で約2年半の滞在となり、1989年「グッバイ・マリルー(Goodbye Marylou)」を発売します。

ホテルでアルバムに入れる曲も収録し、1990年には、アルバム「カーマスートラ (Kâma-Sutrâ)」が20万枚のヒットとなりました。

嬉しいことに、その後白内障の手術を受け、視力が回復したのです😊

グッバイ・マリルの曲作りの間、ポルナレフはほとんど視力がない状態でした。

ロワイヤルモンソーで簡易スタジオを作り、毎晩録音をして出来上がった曲です。

光のみえないポルナレフが、ミニテル(フランスでインターネットが普及する前に使っていた通信道具)で相手の女性と交信をするという内容の歌です。

1960年代のデビュー曲のノンノン人形とは、メロディー、歌詞も全く違う、大人の成熟した曲のタッチとなり、ヒット曲となりました。

孤独な時期をとおりこしてできた曲で、共感を呼ぶものとなったのですね。

現在はポルナレフさんも、70歳をすぎていますが、60年代のフレンチポップス歌手のトップ10に入る、国民的アイドルでファンも健在で嬉しいです。

私生活面では、自分の遺伝子でなない子供にも恵まれ、今は子供はアメリカで、またポルナレフはフランスとアメリカへで生活をしているようです。

フランスに住んでいないことで、いまだミステリアスなイメージ像があり、またコンサートは昔のファンだけではなく、若い層のファンもいる、不思議な魅力のスター歌手です。

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