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パリのバスチーユ広場の歴史(バスチーユの掌握)とオペラ座





パリのバスチーユ広場には、バスチーユ広場の牢獄の跡が残っています。

フランス革命の発端になった場所です。パリ観光では、あまり知られていない穴場です。

パリのバスチーユ広場

この広場がフランス革命へと発展したバスチーユ蜂起があった広場です。

バスチーユ広場

バスチーユ広場には、現在のパリ4区と11区と12区の3区にまたがってあります。

広場の真ん中にあるのが、7月の塔です。

バスチーユ広場
バスチーユ広場

この塔の西側にバスチーユの牢獄がありました。

フランス革命とバスチーユの牢獄跡

フランス革命革命時にパリ市民が標的にしたのはバスチーユ牢獄でした。

取壊わされ、今では牢獄はありません。

バスチーユ広場
バスチーユ広場前の牢獄の跡

広場の西側には、このように丸い金属が埋められています。これがバスチーユ牢獄があった跡です。

バスチーユ蜂起

牢獄があった場所が、バスチーユ蜂起があった場所です。 バスチーユの掌握という言い方もあり、フランス語で「la prise de Bastille」です。

バスチーユを掌握すると言う意味で、フランス革命の記念的な行動がここであったのです。

バスチーユの牢獄には、王の判断で政治犯も投獄されている刑務所だったので、この牢獄を市民の手に掌握することで、王政への抗議をするものでした。

バスチーユ牢獄
バスチーユ牢獄

バスチーユ蜂起の背景には、それまでの不作為で麦が高騰し、労働者の収入ではパンを満足に食べられない状況になっていたのです。

歴史的には1789年7月14日に起こったバスティーユ襲撃となっていますが、数日前から、バスチーユの牢獄前でいざこざがつづいていました。

パレロワイヤルからやってきた市民が牢獄の責任者と話しあいがここで行われたのです。

市民群集が牢獄側に対して開放を呼びかけ、牢獄の武装解除や武器庫に保管されている武器や弾薬の開放を求め、話し合いは決裂し、一部の群集が中庭におしかけるなど、さらに侵入。バスティーユ牢獄は降伏、陥落したのです。

バスチーユ牢獄にいたサド公爵

牢獄が標的になった背景には、牢獄には政治犯とみなされる思想家や貴族らが収監されていました。

1789年のバスチーユ蜂起の時点で、実際にはほとんどの収監者は政治的な背景を持たない一般犯罪者でしたが、中にはサド公爵、ヴォルテールなどがいたのです。

サド公爵(Marquis de Sade)は、18世紀フランスの貴族、小説家、劇作家であり、自由主義的な思想や性的な過激さで知られる人物です。彼は自身の名前から「サディズム」の語源となりました。

サド男爵は、自身の思想を反映した過激な小説や劇を数多く執筆し、当時のフランス社会に衝撃を与え、作品が暴力や性的な暴行、死や腐敗など、過激で猟奇的な描写が含まれていたことで、特待遇で刑務所入りしていたのです。

バスチーユ広場の7月の塔

現在のバスチーユ広場の中央に7月の塔があります。

1830年の7月革命の「7月の塔」です。 バスチーユ蜂起が7月なので、フランス革命記念日の7月とおもいますが、1789年から約40年後の市民革命の塔です。

7月の塔
7月の塔

このバスチーユ広場から東には、職人のアトリエがあり、満足に食事をできない職人が多かったのも、フランス革命への、バスチーユ蜂起となった要因でした。

まとめ

 

バスチーユ広場は、フランス革命のバスティーユ襲撃の発端となった地です。ここまでくると躍動感があります。

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