8月18日にフランスの俳優アラン・ドロンさんが88歳で死去しました。
ロワレ県ドシーにいたドロンさん、スイスまで移転される噂もありましたが、亡くなったのはドシーでした。
フランスの映画界において、他に類を見ない存在となったアーティストのアラン・ドロン。
強い情熱をもって映画に取り組んでいた俳優の名作も一緒に見てみましょう。
フランス映画界の象徴的存在アラン・ドロンが幕を閉じる
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フランス映画界の象徴的存在アラン・ドロンが幕を閉じる
しばらく音沙汰がないと思っていたところに、あのアラン・ドロンさんがついに88歳で死去したとニュースになっています。お子さんがAFPに訃報を伝えたのです。
名俳優のアラン・ドロンの訃報
訃報は、アラン・ドロンの3人の子供さん、8月18日にAFP(Agence France-Presse ) へ伝えたということです。
映画界における名俳優のアラン・ドロンの存在
俳優のアラン・ドロンは、俳優そしてアーティストでした。
また彼自身が一つの象徴であり、その顔そのものでした。
彼はフランスの映画界において、他に類を見ない存在を作り上げた職人ともいえ、強い情熱をもって映画に取り組んでいた俳優だっかたです。
キャリアを始めたばかりの頃に、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』(1960年)やルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』(1960年)に全身全霊を捧げ、一躍有名俳優の仲間入りをしたわけです。
アラン・ドロンの名作
あげればきりがないくらい、アラン・ドロンの映画には名作がありますが、いくつか名作中の名作といえば、
『太陽がいっぱい』(Plein Soleil, 1960年)
●『太陽がいっぱい』(Plein Soleil, 1960年)
ルネ・クレマン監督。アラン・ドロンが主演し、トム・リプリー役を演じたサスペンス映画。彼の国際的なブレイクのきっかけとなりました。
『若者のすべて』(Rocco et ses frères, 1960年)
●『若者のすべて』(Rocco et ses frères, 1960年)
ルキノ・ヴィスコンティ監督。ドロンはロッコ役を演じ、イタリアに移住した一家の葛藤を描いた感動的なドラマ、ルキノ・ヴィスコンティが監督した映画。
未亡人ロザリア・パロンディと彼女の5人の息子たち(ヴィンチェンツォ、シモーネ、ロッコ、チーロ、ルカ)が、南イタリアの田舎町から、経済的な希望を求めてミラノに移り住むところから始まります。
アラン・ドロンが演じる3男のロッコが中心人物であり、家族を支え、特に2男シモーネに対して深い愛情を抱いています。
ロッコは、自らの幸福を犠牲にしてでも家族の団結を守ろうとしますが、シモーネとナディアの間に巻き込まれ、彼の運命もまた暗転します。ロッコはボクシングで成功しますが、それは望んだものではなく、彼の魂を蝕んでいきます。
最後にロッコとシモーネの対立を通じて、家族の崩壊と個人の破滅を描き、最終的には家族が完全に崩壊していく様を目の当たりにする、
イタリア社会における階級の衝突や都市化が家族に及ぼす影響を描いた作品です。
『太陽はひとりぼっち』(L'Éclipse, 1962年)
●『太陽はひとりぼっち』(L'Éclipse, 1962年)
ミケランジェロ・アントニオーニ監督。ドロンとモニカ・ヴィッティが出演し、現代社会における人間の孤独を描いた作品です。
『地下室のメロディー』(Mélodie en sous-sol, 1963年)
●『地下室のメロディー』(Mélodie en sous-sol, 1963年)
アンリ・ヴェルヌイユ監督。ドロンとジャン・ギャバンが共演した犯罪映画で、銀行強盗をテーマにしています。
アラン・ドロンが演じるのはフランシス・ヴェルロックで、シャルル・ジェラール(ジャン・ギャバン)と彼の若い仲間フランシス(アラン・ドロン)が共謀してカジノを襲撃する犯罪ドラマです。
映画の結末では、彼らが成功したかに見えるものの、最終的に盗んだ大金がプールに流れ出してしまうという皮肉な展開になります。
フランシスは最後まで生き残り、計画が崩壊した後、どのような運命が待ち受けているのか、気になる作品になっていますね。
『山猫』(Le Guépard 1963年)
●『山猫』(Le Guépard 1963年)
『山猫』は、1963年公開のイタリア・フランス合作映画で、監督はルキノ・ヴィスコンティ。
イタリア貴族の末裔であるジュゼッペ・ランペドゥーサが自身の体験を基に描いた『山猫』の映画化した作品で、ヴィスコンティが初めてイタリアの貴族社会を取り上げた作品。
アラン・ドロンが演じるのは、タンクレディ・ファルコーネ。
タンクレディは、シチリア貴族の家系に属する若い貴族で、映画の中心人物であるサリーナ公爵(バート・ランカスター)の甥役。
映画を通して、貴族社会の変遷に適応し、新しい時代の中で生き延びるために、自己を変え、戦争に参加し、結婚を通じて社会的地位を確保するというもの。
出演女優はイタリア人のクラウディア・カルディナーレで、ヒット作となりました。
『冒険者たち』(Les Aventuriers, 1967年)
●『冒険者たち』(Les Aventuriers, 1967年)
ロベール・アンリコ監督。ドロンとリノ・ヴァンチュラが共演し、友情と冒険をテーマにした、宝探しの冒険へ旅立ち、財宝を得ようとした結果の悲愴な運命を描いています。
『サムライ』(Le Samouraï, 1967年)
●『サムライ』(Le Samouraï, 1967年)
ジャン=ピエール・メルヴィル監督。ドロンが寡黙で冷酷な殺し屋を演じたフィルム・ノワールの傑作です。
『シシリアン』(Le Clan des Siciliens, 1969年)
●『シシリアン』(Le Clan des Siciliens, 1969年)
アンリ・ヴェルヌイユ監督。ドロン、ジャン・ギャバン、リノ・ヴァンチュラが共演した犯罪映画で、ギャングの世界を描いています。
『太陽が知っている』(La piscine, 1969年)
●『太陽が知っている』(La piscine, 1969年)
ジャック・ドレー監督。ドロンとロミー・シュナイダー、モーリス・ロネ、ジェーン・バーキン共演。サントロペでおこった嫉妬を描いた悲劇。仏題はプールですが、邦題は、『太陽が知っている』です。
@Sakurakoparisドロンとロミー・シュナイダー(La piscine, 1969年)
この映画は日本でよりも、フランスで必ずアランドロンの名作にはいる映画の1つです。
南フランスの高級なヴィラで休暇を楽しんでいる、ジャン=ポール(アラン・ドロン)とマリアンヌ(ロミー・シュナイダー)。
そこにマリアンヌのもと彼のハリー(モーリス・ロネ)が、彼の18歳の娘ペネロペ(ジェーン・バーキン)を連れて訪れ、二人の関係が一変します。
ジャン=ポールの嫉妬心、疑念が積み重なり、四人の関係は次第に危険なものへと変わっていく、静かで美しい南仏の風景と対照的に、登場人物たちの内面で激しく揺れ動く感情を映し出しています。
アラン・ドロンのデビュー当時
アラン・ドロンは無名時代、パリでのさまざまな経験を通じ、のちに重要な人物たちと知り合い、映画界に進出していった人です。以下は彼が映画界に入るまでの主な経緯です。
ジャン=クロード・ブリアリとの出会い
ジャン=クロード・ブリアリとの出会い: 1950年代初頭、まだ俳優として無名だったドロンはインドシナ戦争から戻りパリに移り住み移ったのです。
さまざまな職業を転々とし、この時期、彼は若手俳優ジャン=クロード・ブリアリと親しくなり、ブリアリの紹介が、後に映画界でのキャリアを切り開くきっかけとなります。
デヴィッド・O・セルズニックとの出会い
デヴィッド・O・セルズニックとの契約未遂: ドロンは1956年、カンヌ国際映画祭でアメリカの映画プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックの目に留まったのです。
セルズニックは彼をハリウッドに連れて行こうとしますが、ドロンはフランスでのキャリアを優先し、その申し出を断りました。
イヴ・アレグレ監督との出会い
イヴ・アレグレ監督との出会い: ドロンの最初の映画出演は、1957年の『Quand la femme s'en mêle(邦題: 女が事件にからむ時)』で、イヴ・アレグレ監督によってキャスティングされました。
アレグレはドロンの美貌とカリスマ性を評価し、はし役のJo役で彼を映画に起用しました。
ルネ・クレマンとルキノ・ヴィスコンティとの出会い
ここからアランドロンの黄金時代への突入です。
ルネ・クレマンとルキノ・ヴィスコンティとの協力: ドロンのキャリアの重要な転機は、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960年)と、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(1960年)での主演です。これらの作品は彼を国際的なスターへと押し上げ、彼の名声を不動のものとしました。
決定的な出会いと機会を通じて映画界に進出し、瞬く間にフランスを代表する俳優の一人となりました。
ここまで飛躍的に役を手にしていける何かがアラン・ドロンにあったということです。
ファンが違うジャン・ポール・ベルモンド
アラン・ドロンとジャンポール・ベルモンドは生まれも育ちも、親からの支援も違う環境でそだった二人です。
ジャン=ポール・ベルモンド
ジャン=ポール・ベルモンド:
生年月日: 1933年4月9日
出生地: パリ、フランス
ベルモンドはパリで生まれ育ち、彼の父親はおもにスポーツ選手として知られています。
中産階級の上の家庭で育ち、映画の費用の支援もしてもらていました。
俳優までの違い
ジャン=ポール・ベルモンド:
俳優業への道: ベルモンドは初めて演技の仕事を得たのは、劇団や小さな舞台での経験を経てです。
演劇校出身のベルモンドは、ハンサムでない理由で役者として、役ももらえなかった時期がながかったのです。
アラン・ドロン
アラン・ドロン:
生年月日: 1935年11月8日
出生地: スイス、ジュネーヴ
家族背景: ドロンはスイスで生まれ、後にフランスに移住します。彼の家庭は複雑で、両親は早期に離婚。
親戚の家に送られ、その生活を耐え難く、戦争に志願したのでした。
名監督との出会いもよく、フランス映画のアイコンとなりました。
特に『太陽がいっぱい』(1960年)や『サムライ』(1967年)などで知られ、冷酷な美男というキャラクターで国際的に評価されました。彼の演技は時に冷徹で神秘的であり、洗練されたスタイルが特徴です。
二人の俳優としてのキャリアの道筋と特徴はそれぞれ異なり、フランス映画界における彼らの影響力を形作る要素となっています。
アラン・ドロンが愛した女性の子供たち
認知している子供に3人がいます。なにせ遺産が莫大ですので、認められていいないお子さんもいますが。
ナタリードロンとの子供アンソニー・ドロン
ナタリードロンとの間に生まれたアンソニー・ドロンさん。1964年9月30日にロサンゼルスで生まれ。
両親が1968年に離婚後、彼は母親と過ごし、反抗的な少年時代を送りました。10歳でパリ郊外の寄宿学校に送られましたが、2年後に脱走。
14歳で父親と同居を始めましたが、厳格な学校を転々とし、最終的に17歳で学校生活を終えます。
引用元 ウィキペディア
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ロザリー・ヴァン・ブレーメンとの子供アヌーシュカ・ドロン
アヌーシュカ・ドロンは1990年11月25日にジアンで生まれ。
彼女はアラン・ドロンとオランダ人モデルのロザリー・ヴァン・ブレーメンの娘です。弟のアラン=ファビアン・ドロンと、異母兄のアンソニー・ドロンがいます。彼女は11歳までスイスとオランダで育ったのです。
その後家族と共にパリに移り住んでいたようですが、高齢のアラン・ドロンをスイスへ連れていっていきたかったようです。
異母兄弟のアンソニー・ドロンさんと、父ドロンさんの最後の住処をどこにするのかで争っていましたね。
引用元 ウィキペディア
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ロザリー・ヴァン・ブレーメンとの子供アラン=ファビアン・ドロン
アラン=ファビアン・ドロンは1994年3月にロワレ県のジアンで生まれました。父親は俳優のアラン・ドロンで、母親は元モデルで現在はテレビ司会者およびジャーナリストのオランダ人、ロザリー・ヴァン・ブレーメンです。彼には姉のアヌーシュカ・ドロンと、異母兄のアンソニー・ドロンがいます。
引用元 ウィキペディア
fr.wikipedia.org
まとめ
亡くなってしまったアラン・ドロンさんです。
最後に映画祭に出演してから、お子さんの相続問題の渦中となってしまっていました。
それでも、これまでのキャリアがのこして遺産は莫大で、インタビューでのコメントがやみません。
幼少のころの影となる思い出をばねにして、名役者となったアラン・ドロンさんは、永遠にフランスの映画界にその名を残す存在です。
安らかに眠ってください。
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