先日アラン・ドロンがなくなり、訃報への各界からの反応をみて、どれほどフランス映画界へ貢献した俳優なのかがうかがわれます。
そんなアラン・ドロンでしたが、出演した作品は90本近くにも及んだのですが、同時期のヌーヴェル・バーグの監督作品との関係性は希薄でした。
ヌーヴェルバーグのフランス映画界への影響とはどんなもので、アラン・ドロンがヌーヴェルバーグの映画にほとんど出演しなかったのは何故だったのでしょうか。
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フランス映画とヌーヴェル・バーグの監督
かくいうヌーヴェルバーグとはどんなことか、まずみてみましょう。
ヌーヴェルバーグが出るまでのフランス映画とは。
当時の映画界における主流の作品
ヌーヴェルバーグが台頭する前、フランス映画界は「伝統的なフランス映画」と呼ばれる古典的なスタイルが主流でした。
これらの映画は、よくねられた脚本、大型のカメラセット、機材の揃ったスタジオ、そして演技力のある俳優と、定番のスタイルでした。
質の高い芸術作品として高く評価されていましが、その一方で、このスタイルは形式にこだわり過ぎており、若い映画作家たちには旧態依然としたものに感じられていました。
「ヌーヴェルバーグ(Nouvelle Vague、新しい波)」
ヌーヴェルバーグとは、フランス語で新しい波のことで、当時のフランス映画が停滞していると感じた若い映画作家たちが、従来の映画制作スタイルを打破しようとする試みでした。
「伝統的なフランス映画」の規範を打ち破ろうしたのです。
ヌーヴェルバーグの時期は、1950年代後半から1960年代にかけて、フランス映画界は「ヌーヴェルバーグ(Nouvelle Vague、新しい波)」と呼ばれる映画運動によって大きな変革を迎えました。
ヌーヴェルバーグの監督たちは、型にはまらない映画作りを目指し、映画の表現方法やストーリーテリングの形式において革新をもたらしました。
ヌーヴェル・バーグの監督
そんなヌーヴェルバーグの旗手となったジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、エリック・ロメールなどです。
映画批評誌『レ・カイエ・デュ・シネマ』という映画評論誌があり、それに寄稿をして、まず評論家として活動をスタートしました。
彼らは、自身の映画批評を元に、既成の映画制作方法に挑戦する形で監督デビューを果たします。
フランソワ・トリュフォー
旗手の一人のフランソワ・トリュフォーは、例えば、1959年に『大人は判ってくれない』を公開、少年の内面の葛藤をリアルに描き、ヌーヴェルバーグの旗揚げ作として評価されました。
ジャン=リュック・ゴダール
また、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960年)は、急進的な編集技法とアナーキーなストーリーテリングでした。
これら二人以外の監督たちも、自らが「作家(Auteur)」として映画を作ることにこだわり、個性や内面的表現を前面に押し出した独特のスタイルを確立しました。
アラン・ドロンの登場とキャリアの独自性
それに対して、同時代に生きたアラン・ドロンでしたが、俳優アラン・ドロンの路線には独自性がありました。
アラン・ドロンのフランス映画界への登場
アラン・ドロンは1950年代後半に映画界に登場し、瞬く間にフランスのみならず国際的なスターとなりました。
そのハンサムさはもちろん、クールで鋭い眼差し、そして独特の存在感がスクリーンで強烈な印象を与え、若手俳優として一躍注目を浴びました。
アラン・ドロンは、クラシックな映画に出演した俳優でしたが、アラン・ドロンは、アラン・ドロンで、これまでのフランス映画界の伝統的な俳優たちとは一線を画す存在だったのです。
アラン・ドロンのスタイル
ドロンのキャリアは、ヌーヴェルバーグの運動が隆盛していた時代に重なってはいましたが、彼自身はその美学や哲学と距離を置いていました。
彼のスタイルは、より洗練され、計算された映画美学に基づいており、即興やリアリズムを重視するヌーヴェルバーグとは一線を画していました。
ドロンが目指したのは、エレガントでカリスマ性を伴う「映画スター」としての道であったのです。
内面的な葛藤や複雑なキャラクターを演じる俳優だったので、その意味ではヌーヴェルバーグのスタイルだったとも言えます。
アラン・ドロンのキャリア
アラン・ドロンが無名俳優でした。
それが、1960年にルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』で主役をこなし、世界のスター俳優になったのです。
それがきっかけてで、ルキノ・ヴィスコンティ監督の大作『山猫』(1963年)でも、ドロンはイタリア貴族の青年タンクレディ役を演じ、ヨーロッパ映画界での地位をさらに固めました。
ここまで主役を掴める俳優もまれですね。
アラン・ドロンのスタイルとヌーヴェルバーグのスタイル
ドロンのスタイルは、ヌーヴェルバーグとは異なるものでした。
アラン・ドロンの主演の映画
ドロンが主演した主な作品(『太陽がいっぱい』、『山猫』など)に触れ、その映画美学がヌーヴェルバーグとは異なるものでした。
アラン・ドロンの代表作である『太陽がいっぱい』や『山猫』は、どちらも非常にスタイリッシュでビジュアル面にこだわった作品です。
『太陽がいっぱい』では、南イタリアの美しい風景を背景に、緊張感あふれる心理劇が展開され、ドロンの冷徹なキャラクターがその魅力を存分に発揮。
一方、『山猫』は、イタリアの貴族社会を舞台にした壮大な歴史劇で、ルキノ・ヴィスコンティによる華麗なビジュアルと美学が印象的です。
これらの映画は、緻密に計算された映像美とドラマ性を追求しており、即興性やリアリズムを重視するヌーヴェルバーグの作品とは対照的です。
ドロンの映画は、ヌーヴェルバーグが求めた現実の即興的な描写や日常性よりも、洗練された美と物語性に重きを置いています。
彼の出演作は、観客を視覚的に魅了するスタイルが特徴であり、ヌーヴェルバーグの作家主義とは異なる「映画スター」としての彼の魅力を存分に引き出しています。
アラン・ドロンの主演の映画のスタイル
アラン・ドロンのキャリアは、ヌーヴェルバーグの監督たちではなく、ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ジャン=ピエール・メルヴィルなどの監督の作品へ出演でした。
伝統的で映画美学を重視する監督たちとの協力は大きいものでしたが、特にジャン=ピエール・メルヴィルとのコラボレーションは、犯罪映画やフィルム・ノワールのジャンルで彼のカリスマ性を最大限に引き出しました。
『サムライ』(1967年)などの作品では、ドロンの冷静沈着で孤独なキャラクターが強烈な印象を残しました。
また、ドロンはハリウッド映画にも出演し、国際的な俳優としてのキャリアを広げもし、従来の映画制作の枠組みを大切にし、観客に強い印象を残すスター性を持つ作品が中心でした。
アラン・ドロンとヌーヴェルバーグとの接点のなさ
ここまでみてきて、ドロンのスタイルかいって、ヌーヴェルバーグとは異なるものがわかります。
ヌーヴェルバーグとの接点のなさ: 美学と哲学の違い
アラン・ドロンのキャリアとヌーヴェルバーグは同時期に展開されましたが、彼らの映画美学や哲学は大きく異なっていました。
ヌーヴェルバーグの監督たちが目指したのは、従来の映画作りの慣習に囚われない自由で実験的なアプローチでしたが、ドロンの作品はそれとは対照的に、スタイリッシュで緻密に計算された美学を重視していたことです。
ヌーヴェルバーグが主張した「作家主義」に対し、ドロンは「スター俳優」としての存在感を打ち出し、個人のカリスマ性を軸に映画を構成するアプローチを採りました。
ドロンはヌーヴェルバーグの流れに乗ることなく、より伝統的な映画作りを選び、ヴィジュアル的な美しさやキャラクターのドラマティックな側面に重きを置いた作品を継続していったのです。
ヌーヴェルバーグの 美学と哲学
ヌーヴェルバーグの監督たちは、リアルで即興的な映画作りを重視し、複雑なセットや洗練された演出よりも、現実世界をそのまま映し出すことに関心を持っていました。
ロケ撮影を多用し、自然光を用いた撮影や即興的な演技を取り入れることで、フィクションの枠を超えた「リアリズム」を追求しました。
登場人物は、しばしば日常的で矛盾した行動を見せる普通の人々として描かれ、その物語は、はっきりとした結末を持たず曖昧さを残すことが多かったのです。
アラン・ドロンの 美学と哲学
一方、アラン・ドロンの作品は、スタイリッシュで洗練された映像美を重視していました。
彼が主演した映画では、ドロン自身の美貌とカリスマ性が中心に据えられ、物語やキャラクターはその魅力を引き立てる要素として配置されました。
『太陽がいっぱい』以外でも『サムライ』などでは、彼が演じるキャラクターが孤独や内面的な葛藤を抱えながらも、常に美的に整った姿で描かれており、日本の武士道を追及する哲学があったのです。
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ヌーヴェル・バーグの監督
ヌーヴェルバーグの監督と言っても、それぞれの監督でスタイルは違います。
フランソワ・トリュフォー
トリュフォーは人間関係や個人的な感情、キャラクターの内面的な葛藤を描くことに重点を置いています。
その作品は、登場人物の感情的な成長や葛藤を中心にしており、より感傷的で詩的な側面が強いです。
特に『大人は判ってくれない』(1959)では、少年期の孤独や疎外感をリアルかつ情緒的に描き、観客の共感を引き出す物語展開が特徴です。
トリュフォーは伝統的な物語構造に忠実であり、ストーリー重視の映画作りを好みました。
『大人は判ってくれない』(Les Quatre Cents Coups)は、1959年作フランソワ・トリュフォー監督の最初の長編映画です。
日本語タイトルでは、大人は判ってくれないですが、フランス語原題は「Les Quatre Cents Coups」で、直訳は「400回の殴打」と書いてあり、どんちゃん騒ぎをする、はめを外して遊ぶの意味です。
これは自伝映画です。実はトリュフォー自身が非行少年だったので、トリュフォー自身の幼少時代の自伝とも言うべき作品です。
ジャン=リュック・ゴダール
ゴダールは、映画自体の形式を実験的に変革することに関心がありました。
それで作品は、従来の物語の形式や語り口を意図的に崩し、しばしばプロットを犠牲にしてまで映画的な表現や政治的・哲学的なテーマを追求します。
『勝手にしやがれ』(1960)や『気狂いピエロ』(1965)では、ストーリーが断片化され、キャラクターの行動は時に非現実的、または予測不能です。
ゴダールの作品は、物語の伝統的な枠組みを超えて、映画そのものの可能性を探るようなスタイルです。
ヒット作品の『勝手にしやがれ』(À bout de souffle)は、1960年作、監督・脚本はジャン=リュック・ゴダール、出演はジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグ出演です。
トリュフォーの『大人は判ってくれない』の翌年に出、ヌーヴェルヴァーグの位置を確実なものとした傑作です。
ジーン・セバーグがヘラルドトリビューン紙を売っているのは、シャンゼリゼ通りで、ヘラルドトリビューンの発音がなんとも英語で、フランス語の映画の中で、目立つシーンです。
映画は、ハンフリー・ボガートを崇めるミシェル役、ジャン=ポール・ベルモンドが、パリに着いたものの文無しで警察からも追われ、アメリカ人のガールフレンド、パトリシア扮するジーン・セバーグに出会い、恋愛も絡んだ、刑事映画です。
最後に、ミシェルは逃げるなか、刑事に撃たれて死にますが、「本当に最低だ」と、死ぬ寸前にミシェルがいう場面が感動のシーンです。
ジャン=リュック・ゴダールは、ジャン=ポール・ベルモンドは死に方が上手い役者と評していましたが、この最後のシーンは、是非ともみておきたいシーンです。
ジャンポールベルモンド、ジーン・セバーグ、ゴダールが一躍有名となったのです。
ジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォー
同じヌーヴェルバーグの監督の二人ですが、トリュフォーの映画を通じて人間の複雑さを表現し、観客が感情移入できる登場人物や物語を作り出すことに努めました。
彼の映画は、社会的・政治的なテーマを扱うこともありますが、個人の体験や感情に焦点を当てることが多く、観客に対して親しみやすい内容となっています。
それに対して、ゴダールの映画は、政治的・哲学的なメッセージを伝える手段として捉えていました。
彼は映画を通じて現代社会、資本主義、戦争、疎外感など、さまざまな社会問題を批評しました。
ゴダールの作品は、観客に対して映画を通じて新たな視点を提供し、映画の意味や形式についても考えさせることを目指しており、しばしば難解で実験的な内容になります。
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アラン・ドロンとヌーヴェルバーグの接点・まとめ
最後に、映画哲学の違うアラン・ドロンと、ヌーヴェルバーグの監督の作品でしたが、早くなくなったフランソワ・トリュフォーとではなく、長生きができたジャン・リュック・ゴダールの作品に、アラン・ドロンは出演しています。
と言っても1990年と、デビューしてから30年後のことでした。
面白いのは、その映画のタイトルが、『ヌーヴェルバーグ』で、ミステリアスな映画です。
シリアスな映画で、ゴダールと、アラン・ドロンの美学にマッチしたものです。
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